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(*'▽')[アインシュタイン記念日] アインシュタイン博士と湯川秀樹博士

う山先生


(*'▽')[アインシュタイン記念日]

アインシュタイン博士と湯川秀樹博士

 

アルベルト・アインシュタイン博士と湯川秀樹博士の間には、科学者としての深い相互理解だけでなく、原爆の惨禍をめぐる涙の謝罪と、その後の命がけの平和運動という、歴史に残る感動的なエピソードがあります。

主に知られる3つの重要なエピソードをご紹介します。


1. アインシュタインの涙と謝罪

1948年、湯川博士がアメリカのプリンストン高等研究所に客員教授として滞在していた時のことです。アインシュタイン博士がわざわざ湯川博士の研究室を訪ねてきました。

部屋に入るなり、アインシュタイン博士は湯川博士の手を力強く握りしめました。その目からは大粒の涙が溢れ、肩を震わせながらこう言ったそうです。


「何の罪もない日本の人々を、原爆で傷つけてしまった。本当に申し訳ない。どうか許してほしい」


原爆の原理は、アインシュタインの特殊相対性理論(E=mc²)から導かれたものでした。また、彼はナチス・ドイツより先に開発すべきだと当時の米大統領に進言した過去もあり、広島・長崎の惨状に激しい自責の念を抱き続けていたのです。

若き湯川博士は、偉大な天才が幼子のように泣きじゃくる姿に大きな衝撃を受け、「科学者である前に、まず人間でなければならない」という学者の良心を強く刻みつけられました。



2. 初めての出会いと「日本食」の思い出

二人の最初の出会いは、それより前の1939年(第二次世界大戦の開戦直後)でした。当時32歳だった湯川博士がプリンストンを訪れた際、アインシュタイン博士(当時60歳)は非常に暖かく迎え入れました。

アインシュタイン博士は1922年に来日したことがある大の親日家だったため、湯川博士との夕食会では日本の思い出話に花が咲きました。


「日本の天ぷらは本当に美味しかった。それから昆布の佃煮もね。日本人は皆、礼儀正しくて親切だったよ」


と嬉しそうに語り、まだ世界の主流派から完全に認められていなかった湯川博士の「中間子論」にも、深い理解と興味を示して励ましたとされています。



3. 「ラッセル・アインシュタイン宣言」への共鳴

アインシュタイン博士の涙の謝罪の際、彼は湯川博士に「これからは私と一緒に、核兵器をなくすための運動をしてほしい」と訴えました。湯川博士はこれに深く共鳴します。


アインシュタイン博士が1955年に亡くなる直前、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルらと共に、世界に向けて核兵器廃絶を訴える「ラッセル・アインシュタイン宣言」を準備しました。

アインシュタイン博士の遺志を継ぐ形で、湯川博士も日本人としてこの宣言に賛同の署名を残しています。


これがきっかけとなり、現在も続く世界的な科学者による平和会議「パグウォッシュ会議」へと繋がっていきました。


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まとめ

物理学の歴史を大きく変えた二人の天才は、「科学の生み出した力が人類を滅ぼしてはならない」という強い社会的責任を共有した同志でもありました。